2008/02/13

日本初のエンジニア


世の中が発展していく裏側には、必ず「人とは違った素晴らしい視点を持つ人」の存在があります。日本の自動車産業も、そのような人達の存在があったから わずか100年の間に大きく成長してきました。今日は自動車を語るには忘れてはならない人物のお話をします。

日本で最初のエンジニア、「林平太郎」をご存知でしょうか? 残念ながらあまり知られていないのですが、彼がのちの国産車のめざましい発展の、足掛かりになったことは言うまでもありません。


平太郎は長野県で生まれ育ち、20代の頃はアルバイトをして生計をたてていました。その後 縁あって明治35年(1902)、「ブルウル兄弟商会」へ入社します。この会社は平太郎が入社する前年に、(米)蒸気自動車「ナイアガラ」を輸入しています。

様々な本や資料で 日本に初めて輸入された車は、この時のナイアガラと書かれていますが実は間違いです。正しくは、明治31年に あのパナールが自ら持参した「パナール・エ・ルヴァッソール」です

平太郎はしばらく勤務した後、「モーター商会」へエンジニア兼販売 として入社します。しかし経営が傾き、2年後に潰れてしまいました。そこで彼は赤坂(東京)に 「日本自動車商会」を作ります。ある日、銀座の亀屋(洋酒店)が ウイスキーの宣伝用にウーズレー車を購入したのですが、当時はすべて解体して船で運んでくるので ご主人は四苦八苦しました。結局 組み立てられず、平太郎に組み立てと運転指導を依頼します。この事がきっかけで 大隈重信の執事が平太郎に自動車の修理を依頼します。

大隈重信は政治家として有名ですが、実は大の車好きでした。かの有名な、玄洋社社員による爆弾事件で片足を失い自動車を使用するようになったのですが、魅了されたようで外出には必ず自動車を使いました。また彼の葬儀の際、愛車を改造しその中に遺体を入れて火葬場まで運びました。

これが霊柩車の始まりです。

さて、平太郎が依頼された車は (仏)ホチキスでした。彼は修理のついでにローソクを入れる旧式のライトを 大胆にも「アセチレン・ライト(広範囲が燃焼する気体、危険)」へ変え、夜間走行の際の視界を良くしました。

しかし、とにかく故障ばかりする車で タイヤがダメになったら綿を詰めて走らせ、もしもの時の為に 毎回、人力車を後からついて来させる始末・・・・・・。その為、大隈は高級車「キャデラック」へ乗り換えました。

この頃から大隈は平太郎の仕事が気に入り、「専属になってくれ~~~!!」と、熱いラブコールを送り続けていました。

願いは叶って、彼は赤坂の店を閉めて 大隈のエンジニアとして働く傍ら、トラック会社の「帝国自動車株式会社」で顧問エンジニア兼工場長 として働き始めます。平太郎は非常にタフな人で、この会社の下請けをしていた 「小磯鉄工所」にも出入りし、そこでは自動車研究に勤しみました。

その結果、明治43年(1910)11月24日に、「車上発動クランク」を発明し特許を取得しました。これは非常に進んだ発明で、信じられないかもしれませんが 従来の自動車はエンジンを始動させる際、車から降りて「クランク・ハンドル(手まわし用ハンドル)」を廻す必要がありました。平太郎は、運転席に腰をかけたまま始動させる事を可能にしたのです。

翌年、彼は帝国自動車を辞職し小磯鉄工所からも離れ、大隈家専属エンジニアとして働きます。しかし その10年後、大隈重信が他界すると大隈家を去り、真意はわかりませんが自身が他界するまでの6年間は化粧品研究に没頭したといいます。


いかがでしたか?? 没後80年が経ちましたが、彼の存在がなければ 今の国産車の姿はなかったかもしれません。 今の日本を見たら、平太郎は何を思うのでしょうか。是非、彼の名前と 自動車発展のルーツを頭の片隅に入れて頂けたらいいなあ・・と思います。

今回は林平太郎を取り上げましたが、今後もちょくちょく プロジェクトX風に(笑) 様々なお話を楽しく書いていこうと思います★★